プレーン
04/12/09

 『文』のコーナーのテキストをプレーンテキストでリスタートしてみた。
 これまでの自分のテキストを見てきてごちゃごちゃし過ぎていると思ったからだ。

やはりプレーンテキストは良い。

 プレーンっていうことはだ、つまり「1 明白な,はっきりした,わかりやすい 2 ありのままの,正直な 3 かざり気のない,質素な」という意味がある。
 タグを付けるのが面倒なだけであるという都合を隠し通してプレーンの良さを挙げまくる私にぴったりな言葉である。

 プレーンヨーグルトを想像してみてほしい。
 真っ白でひたすらにシンプルでまさに私の存在そのものである。

 まさにプレーンとは私の事を言うのであろう、と人に問うと、ある人は言う。
「真っ白で背景に溶け込んでるところが似ている」
 またある人は言う。
「地味で全く目立たないところが似ている」

orz...



デジタル・ディバイド
04/12/18

 主要科目では良い成績など取れない私だが、そんな私でも良い成績を取れる教科はある。
 情報。
 つまりPCである。とは言ってもプログラミングとかハッキングとか、そんな高度なことをするわけではない。MS-officeの簡単な使い方だけである。普段からそういう作業をしている人間にとっては、大したことないのである。
 ただ、そうでない人から見れば、技術を多少なりとも持っている人はまるで神様のようであるらしい。
 例えば、私なんかはクラスの人から「どのサーバーにも入り込める」と思われているが、実際はそうではない。所詮アマチュアだからだ。それに「パスワードなんてすぐに破れる」と噂されているが、勿論そんなことはない。所詮アマチュアだからだ。授業中も、隣の女子に「変になっちゃった」と言われ、Ctrl+Zを押してやるだけで、「惚れ直した」と言われるのだ。それはないだろう、と思う。それは私の妄想だからだ。

 一番気になることは、私にも解決できない問題が発生したとき。「あ〜これは再起動だね」とでも言うと、
「チッ」
 舌打ちが聞こえてくることである。

 どうも、良いように使われているような気がする。なぜ技術のある人のほうが邪険に扱われなければならないのか。
 これではまるでツールみたいではないか。



夢なんて一つも無かった
04/12/24

 子供のころから「サンタなんて絶対にいない」と子供らしさのかけらも無い考えを確立させていた在りし日の私は、小学校の授業における命題とも言える「サンタはいるか」のディベートを明日に控え、いかに大人に洗脳されつつあるクラスメートを目覚めさせてやろうか頭を巡らせていた。

 そうして迎えた道徳の授業

 「いる」「いない」それぞれのグループに分かれ、これから行われる論理戦に備える。
 人数的に見ると「いる」派はこちら「いない」派の約2倍。しかしこちらの陣営には優れた人材が多かった。まず私である。普段から自己のロジック回路を形成しており、特に理数系の科目においては満点をほぼ外さない(尤も、文型科目も高得点であったが)ため、とりわけ論理的思考には強かったのだ。そして友人M。どちらかと言うと文系だが、頭は良く、また多くの言葉を知っているので論戦において心強い味方であった。

 そして双方の意見の発表

「いる」派
「さんたさんはわたしにぷれぜんとをくれました。
だからいるとおもいます」
「このまえてれびでみました」

 かわいすぎる。

「いない」派
「まずサンタがいるとしてどうやって家にはいるのか。鍵は閉まっているし、世界中の子供のいる家を回るのは一人では不可能である。もし複数人数いるとすればなぜそのうちの一人すら見ることができないのか知りたい。」とこのようなことを言っていた(ような気がする)

 当時、この意見を考え出した時も最高の意見だと思ったが、今見ても凄い意見だ。小学生の背理法である。

 当然夢見る「いる」派の面々は反論ができず、「いない」派がその出鼻をくじく事に成功したのである。

 次は各々反対派に反論する時間だ。

 一次意見によって考えを変えることを許されていたため、数人が夢から醒めたようだ。しかし改宗しない輩も多い。

「いる」派から
「テレビでみました」の発展形、
「ニュースでもやってました」が出た。

 これに対し「いない」派はサンタがいるという証拠や天駆けるソリの原理など矛盾点をあげるというものが続いた。

 今と考えてみれば、勝負は最初の意見発表の時点で決まっていたのだ。「サンタはいないんだ」と早くも悟った人間と、未だ夢を見続ける人間との精神レベルなど天と地の差である。

 最終的な結論は「サンタはいない」という担任を凍り付かせる結論に至り、「いない」派の主要メンバーも矛盾点の説明がなかった不満はあったものの、おおかた満足したようである。

 前日の寝不足で授業中ほとんど寝ていた私を除けば。



夢想
05/01/03

 初夢は実現すると良く言われる。有名なのが『一富士、二鷹、三なすび』というものである。なすび、と聞いて懸賞生活し続けて、今は生存すら疑わしい芸能人を連想した私は負け組であろう。

 まぁ、それはいいとして、私は元日の朝、銃声で目覚めた。

 縁起でも無い。なにかと思って辺りを見渡すとそこは学校の教室。傍らには44マグナム。生徒と何やらイスラム系の怪しい集団が銃撃戦をやっているではないか。隣でマシンガンをぶっ放す友人に声を掛けると、
「いいから撃て!!」
と叫ばれ、その表情が必死そうだったので、窓から外の人に二発発砲。
後ろに気配を感じ、忍び寄った敵の小隊に四発発砲。
 と共に友人が倒れる。いつの間にか窓からも一人侵入していたのだ。咄嗟に構える。
「無駄だ、君は六発撃ってしまった。」
 相手の手にはデザートイーグル。さすがはイスラム人…、と思ったとき、

「いや、待てよ。この銃って装弾数7h

バンッ!
…という縁起でも無い初夢を見てしまったのは、きっと疲れていたからであると信じたい。



髪切り
05/01/10

 髪を切りに行った。私は短髪が好きである。

 それにしても、床屋という場所は一体何故眠くなるのか私は知りたい。あの椅子に座っていると、眠気が襲ってきて、瞼がどんどん重くなる。その度に、きっと店内には催眠ガスが充満しているに違いない。うっかり寝てしまえば次に起きたときに髪形がどうなってしまうか分からないぞ。と考えて、眠気に抵抗してみたりするのだ。

 しかし、唯一眠っている場合ではないときもある。それは、新人に髪を切ってもらうときである。

 こんな経験があった。

 店に入って、スポーツ刈りにしてもらう。私の頭蓋骨は、丸くなく、極端に言えば絶壁頭なので、スポーツ刈りと言っても最終的には角刈りのようになってしまうのだ。
 髪を切ってもらった後、剃刀で髭などを剃ってもらう。と、ここで新人と交代。新人の理容師はおっかなびっくり剃っていく。私の神経まで擦り減っていく。もっと私の顔を風船みたいにデリケートに扱ってほしい。割らないようにそーっと、そーっと…

 パーン

 頬に見事な傷が付いた。軟膏をたくさん塗られた。

 全て終わって、最後に自分の顔を見てみる。私は視力が弱いので目を細めて鏡を見ると…

 そこには角刈りで頬に傷の入った男がこちらを睨んでいるではないか。これでは組の者になってしまう。

 自分の顔に驚いたのはこの一度だけであった。



呪ウイルス
05/01/17

 ついにノロウイルスとの接触、取り込みに成功した。私の健康管理の賜物である。

 しかし、私の妄想とは裏腹に、からだの動きが緩慢になるとか脳の処理能力が落ちるとかはなかった。その証拠に、ここまで書くのに20分は経っていないし、脳みそは落ちずにしっかり飛んでいる。それに、装備した瞬間から身体能力が落ちたり、仲間に攻撃してしまうこともない。第一、仲間なんて最初からいない。

 ところでこの文章を書いている途中に嘔吐した。なんて書くと画面の向こうの人はつられて吐いてしまうのだろうか。

 ところでこの文章はトイレで書いている。なんて書くと画面の向こうの人はつられてトイレへ行ってしまうのだろうか。

 ところで私は真性ののろまである。なんて書くと画面の向こうの人の何人が否定してくれるのだろうか。私は肯定派である。

 今日もしっかり文章が書けるので、体は大丈夫だ。脳はともかく。

 病院へ行かなくては。(精神科)



文字と日本人
05/01/24

 日本にはもともと文字など無かった。今から千年以上前に、中国から伝来してきた「漢字」そこから派生した「平仮名、片仮名」、そして「ローマ字」。日本人はこんなに多くの種類の文字を使いこなす唯一の民族となった。

 当然、現代の日本人の負担は増えるばかりである。多くの文字を学ばなければならないからだ。私は、それらの一つ「漢字」の意味を古代日本人が取り違えたことが国語のレベルを上げてしまっていると考える。

 例えば「雪」という漢字がある。日本人なら、空から降ってくるアレを想像するだろう。しかし、中国人はこの「雪」という漢字の意味を、「すすぐ、きよめる」として使っている。「雪辱」という単語も、これなら納得できるが、「雪の辱め」と誤訳すると、なんだか別のことを考えてしまう。

 日本人はさらなる愚を犯した。「国字」なるものを作り出したのだ。そんなものを作るから漢字の意味がさらに分からなくなる。「峠」も国字だが、山の上と下=頂上と麓である。ほら、意味が分からない。

「重いの『重』と『力』で何て読む?」
「重力。」
「動くの『動』だろ」

 家族のこんな素晴らしい会話が聞こえたとき、日本語の難しさを痛感した。




05/02/03

 ゴキブリというのは突然出てくるものである。そして我々を驚かせその顔を見ることを生涯の楽しみとするのだ。それが宿命なのである。そのためなら彼等は手段を問わない。我々に向かって飛んできたり、集団戦法を仕掛けてきたり、PCの中に忍び込んでショートさせたり、とにかく迷惑である。

 しかし、時として彼等すら予想しなかった動きをする。

少し前、こんなことがあった。
その日、奴は突然現れた。私の家では、まず殺虫剤で殺すか弱らせてから屋外に追放する決まりになっており、私はまず、奴に殺虫剤をかけた。

 すると、殺虫剤が切れかけているではないか。十分なダメージを与えることができず、奴は暴れる。

 そのとき、奴はいきなり棚に昇りだした。途中で殺虫剤が効いてきたのか、棚から落ちた。真下には………ゴミ箱。

嫌がらせのつもりだろうか。私にどうしろというのだ。



肉の日
05/02/09

 2月9日は肉の日である。そんなことを言い出したのはだれだろう。きっと肉が大好きな人間に違いない。その人は毎月29日になると「肉の日だ」と言っては肉を食べるのだ。ところが2月だけ29日が無い場合が殆どなので2月9日を肉の日とし、肉を毎月食べられるようにしたに違いない。世の中はうまくできているものだ。

 そんな肉好き人間達の常識がいつの間にか日本中に広まり、日本人はこの日、焼肉やステーキ、自分の贅肉などあらゆる肉を食す。今回は、我々貴族の焼肉を紹介しよう。

 高貴なる我々は、いきなり肉をがっつく等といった、卑しいことはしてはならない。まず焼いた牛肉に付けるタレから作らなければならない。庶民の使う市販のタレでもよいが、そこに香辛料を足すと美味である。そしてタレが出来た後に常温に戻しておいた牛肉を焼くのである。あとは普通に食すだけだが、肉ばかり食してはならない。あくまで食事というのは炭水化物の補給であり、肉を取りすぎると美容健康財政に良くない。そこで私はご飯一杯を肉一枚で食べることを提案したい。この食べかたこそ最高の食し方なのである。

   と、友人に話したら「貧乏性」と言われた。結局庶民にはこの高貴なる食事は解せないのであろう。



耳の力
05/02/15

 耳たぶをいじっていたら急に視力が上がった。「ついに覚醒のときが来たか」と思ったのだが、一時的なものだったらしく、5秒で元に戻ってしまった。その後、いくらかいじってみたがダメだった。

 耳はツボがたくさん集まっている、と良く言われる。ピアスの穴を空けたら急に目が良くなったとか、耳の聞こえが良くなったとか言う話を良く聞く。今まで嘘だと思っていたが、あまりに劇的に変わるので、信じない訳にはいかなくなった。

 要はピアスの穴を空けるとか、つまむとかじゃなくて、耳に何らかの刺激を与えれば良いと思う。授業中や就業中にペンの尻で耳たぶを押してみるとかでも良さそうだ。ただ私のようにペン先で耳たぶを刺すのは、お勧めできない。

 ここまで書いていて、気になった。刺激を与えれば良いと言うことは、ピアス穴を、それこそマシンガンの様に空けたらどうだろう、目の見えかたは良くなるだろうか。


 いっそ、耳ごと取ってしまえば、耳の聞こえがもっと良くなるのかも知れない。



隗より始めよ
05/02/22

「昔の王様が、使いに大金を持たせ良い馬を買いにいかせた。ところが使いは『うまのほね』をそのお金で買って来た。当然王様は怒る。
使いは『馬の骨を買ったという噂が流れれば馬を売りにくる人もいるでしょう』と言った
 噂は流れ、大金を手にしようと馬を売りにくる人はたくさん来た。結果、良い馬がたくさん集まった。」
なんて話しもあるんだから、優秀な人を集めるんなら、私でも雇ったら〜王様ぁ〜

ってなお話しである。漢文の授業で読んだのだが、いまいち納得しかねる。

 今風に例えてみれば、凄いスペックのPCが欲しいとして、お亡くなりになったHDDを大金で買うようなものである。もしそんなことを私がしたら、店員はさぞかし私のことを変な目でみるし、ましてや噂にでもなったりしたら、通行人はわたしを見るなり避けて半径10mの人口はたちまち一人になってしまう。

 他に例をあげるとすれば、フェラーリが欲しいあまりに、スクラップ工場から事故車を大金で買い取るようなものである。おかしいだろう。何故その金で欲しいものを手に入れようとしないのか。

 そんな勿体ないことするのはどこの馬の骨だ。



学力≠読書量
05/02/28

 学力低下が叫ばれている。数年前から始まった「ゆとり教育」のツケが回ってきたようだ。とは言っても「赤十字」や「田園」が読めない、というのはひど過ぎると思う。
 「赤十字」を「あかじゅうじ」と読む彼らは「赤飯」をどう読むのだろうか。「あかめし」だろうか。
 漢字が書けないのはIMEやらATOKがどうにかしてくれるが読めないのはさすがにまずい。余談だが、これはPDAで書いている。「あかじゅうじ」を変換したら「亜果汁児」と気違いめいた単語を作ってくれた。みなさんお使いのパソコンで試してみてほしい。

 兎に角、日本人が常識として知っている単語くらいはよめるようであって欲しい。そのためには読書も多少必要だろう。

 ただ、このことを母に話したところ、こう言われた。
「赤十字といえば、世界史で黒十字軍ってなかったっけ?」

 本の読みすぎも、どうかと思う今日この頃。



デジタル・ディバイド(2)
05/03/13

 情報の先生の技術を疑うようなことがあった。

 その日の授業は何だか偉い人がたくさん来て落ち着かない授業だった。
 そんな中、最初の作業。
「まずデータサーバーからフォルダごとコピーしてください」
 コピー元はデータサーバー。コピー先もデータサーバーのユーザー領域。→クラス中が一斉に操作→高負荷、フリーズ。と言っても四十人位の人がやっただけではそんなに負荷はかからない筈なので、なにかおかしいと思いながら次の作業。
 先生は何をとち狂ったか、
「コピーしたフォルダの中の**.pdaを開いてください」
 pdaファイル?ザウルスとか?と思いつつフォルダを開くとそこには…**.pdf他全部で200Mbyte程。高負荷の原因はこれだったのだ。しかもHTMLで打てば良いものをPDFと来た。ただでさえ少ないメモリをオーバーフローさせる気だろうか。
 しかし、最大の危機は授業終了後であった。
 クラスの人が次々にシャットダウンしていく中で…
 ファイルの同期をとっています………………
………ユーザー領域がいっぱいです。

逝ける。

 偉い人は授業中ずっと私の傍らに座り続け、ITがどーたらこーたら雑談していた。
 頼むから先生を変えてほしいものだ。



行く人、去る人
05/03/30

 昨日、学校で離任式があった。
 まぁ、いろんな先生たちが転退職するわけである。
 その中に、私が文句をぶーぶーたれていた情報の教師の名前もあった。この先生、学期末のテストをする度に出題ミスがあったりして、そのたびに

「先生、1kbytesは約1,000,000バイトではないと思います」とか

「先生、3.5インチフロッピーには普通1.5メガも入りません」とか言いに行ったものである。

 しかも、その先生の離任前の演説が
「えー、今までにおこったスペースシャトルの事故というものは、データの抽出が甘かったことによる正しいデータの不足であり、このことを我々の生活に当てはめると、情報があふれる中で、正しい情報を見極めることが大切…云々」ときたものだ。

 まったく説得力がない。

 …そうして、我々の学校から14人の教師が去った。来年からの情報の授業に期待。

ちなみに、新潟中越地震のことを「長野の地震」とのたまった校長は今も健在である。



日時付き予言
05/04/13

 空が落ちてくる、といきなり言われたら、信じることが出来るだろうか。言うまでもなく「杞憂」の話だが、家族や友人がいきなり「落ちる…空が落ちるんだ」とか言い出したら、私は施設を紹介するだろう。

 ところが、信じられないような話を、たくさんの人が信じてしまったこともある。ノストラダムスの予言である。どうせ世界は終わるんだ、と言って夏休みの宿題をやらなかったのは私だけではあるまい。

 何故、空が落ちることが要らぬ心配で、より信じられない、悪魔の大王が落ちてくるという話を信じてしまうのだろう。

 やはり、後者は明確な日時を表しているという点が、現実味を増しているのだろうか。ということは、信じられないような予言も明確な日時を表せば信じることが出来るのだろうか。

例を挙げてみる。
「1999年7の月、空から魚が降って来る」
アメリカじゃあるまいし。

「1999年7の月、空から豚が降って来る」
これでは某書籍の真似である。

「1999年7の月、空から俺が降って来る」
……やっぱり信じてもらえそうにない。

というか、こんなことを考えている私自身が「杞憂」なのではないだろうか。



杞憂
05/05/03

 宝くじが当たったらどうしよう、と誰もが考えたことがあるだろう。私も、よく妄想の中で会社を設立したり、地中海沿いに家を建てたりしていた。それだけでなく、大金を手にしたら、自分の第二の人格が出てきたり、家族の人間関係が悪くなったりしないだろうか、という余計な心配までしていたものであった。

 これらは全て、大金を手にしたいという欲望が、欲しいもの、してみたいことといった、よりはっきりとした欲望になって表れたものといえる。いや、そういった欲望の達成のために金銭が必要だから、手段として大金を手にしたいという欲望があるのかもしれない。

 どっちにしろ、そういう夢を持つ人がいるから、宝くじが売れるのだ。考えるのはタダだし、私は宝くじが当たった後のことを考えるのは別に良いと思う。せめて夢の中だけでも金持ちでいたいものである。それくらいは許されるだろう。

 宝くじを買っていない私にだって。




05/05/11

 唐突だが、トイレのドアにぶつかってしまった。

 痛い、当然痛いのだが、トイレに行きたい、痛い、行きたい…という、実にもどかしい思いをしてしまった。大体、何でトイレのドアは外開きなのか。トイレに行きたくてドアの前で待っている人にとっては中の人が出てくるのが待ち遠しいのだ。それなのに、何故わざわざドアが開くときに退くなどという無駄な動作をしなければならないのか。

 日本における玄関のドアのほとんどは外開きである。靴を脱ぐスペースを玄関の中に確保することが目的らしい。一方、欧米諸国では、玄関のドアは内開きである。偏見かも知れないが、こういった国では物騒な事件が多く、玄関内に大きなものを置くことによってドアを固定し、敵の侵入を防ぐためらしい。実際に、チェストをバリケードに使って、殺人犯の手から逃れた例もあるそうだ。日本には長い間移民などがなかったため、民族同士の争いや防衛策を知らなかった。日本の外開きの文化は、単に狭い日本の住宅事情によるものだけでなく、こういうところからも来ているのだろう。

 つまり、日本国内でトイレに入っているときというのは、非常に無防備ともいえる。しかし、トイレで窃盗事件などの犯罪が多いということをあまり聞かないとこから、改めて日本は平和だと実感した。ただ、トイレの中で平和に思いを馳せても格好がつかない。

 外開きだと外の人が危ない。内開きだと中の靴やスリッパがめちゃくちゃになる。では、どうすればいいのか。

 こういうときは、やっぱ引き戸か…。



BUS STOP
05/05/20

 世の中には無駄だと思っていても挑まねばならぬ戦いがある。
 バスに乗っていても、そんな戦いは突然やってくる。

「降ります」のボタン。
 このボタン、何故か誰も押そうとしない。時間が経てば経つほど「押したら敗者」の雰囲気が車内に満ちる。ぎりぎりまで待って、誰も押さなかったら自分が押そう。いや待てよ。他にも同じ事を考えている奴がいるかもしれない。あと少し、少しだけ待とう。あっああああああああぁぁぁぁぁ!「ピッ」

 そんな、言わばチキンレースの様な高揚感と終わったときの解放感を与えてくれるこの戦い。誰にでも経験は有るだろう。

 私も男である。この度胸試しで私は負けたことが無い。しかし、とんでもない敵と遭遇したことがある。
 バスに乗った瞬間から、心理戦は始まっている。その日も例外では無かった。いかにも「近くでは降りないぞ」という態度で座席に座り込む。降りるバス停が近くなっても動じず。いつもなら誰かが押す。しかしその日は誰も押さない。負けず嫌いの私。押すもんか、と構える。誰も押さない。もうぎりぎりだ。ああっまずい通り過ぎる……………

 ………「ピッ」

 誰かがボタンを押した。今日も私は勝ったのだ。

 バスを降りた私は、その勝利感に酔いしれながら、とっくに通り過ぎた、本来自分が降りるべきバス停に向かって歩きだした。



マイナス
05/06/05

 マイナスイオンが体に良いという話を良く聞く。マイナスイオンというのは、マイナスの電荷を持った原子、分子の事である。
 私もマイナスイオンブームに乗せられ、『マイナスイオン発生ブレスレット』なる物を買ったりした。今思えば怪し過ぎるこの品、マイナスイオンを発生させるという。いや、そうでなければいけないが。

 さて、突っ込んだ話になるが、マイナスイオンを作り出すには最低一つの電子が必要である。その電子の調達元は他の物質である。

 ここで考えてほしい。
 空気中で安定している物質から電子を奪い取ってマイナスイオンを作る。→電子を取られた物質はプラスイオンになる。→マイナスイオンはプラスイオンに電子を渡す。→全て元通り。→世の中は平和のまま。

 つまり、何も変わっていないのである。そこにあるのは流行に遅れることが無かった、という満足感と、実体のないマイナスイオンに満ちているというブラシーボ効果だけである。
 ここで騙されない人間が勝ち組である。と、両腕に『マイナスイオン発生ブレスレット』装備中の私が叫んでみる。




05/07/21

 のりと言うものは口に張り付くものである。こう聞いて、糊を思い浮かべる人間は少数派かつ負け組である。

 言うまでもなく、海藻の海苔だが、とにかく良く張り付く。一度口に入れたらたちまち口の中の水分を吸い取り、歯では噛み切れない絶妙の湿り気を帯び、やがて歯茎の裏に張り付くのである。

 そして、我々は口の中に指を入れて、海苔を掻き出さなければならない屈辱を味わうのである。水を飲めば良いと野暮なことを言ってはいけない。人間と海苔の宿命であるからである。

 同時に、それは海苔にとっても宿命である。彼らには彼らのやるべきことがある。それが「口の中に張り付く」ことであり、故に口の中に張り付く海苔はしつこいのである。

 海苔を食べる人間の中で、海苔が口の中に張り付く理由を知っている人間は何人いるだろうか。私は知らない。今書いたことは全て私の妄想だからである。